教育やら何やらについて


昨日のビートたけしの特番から。

まあ、あれだ。名札を外すとかには同意できるわけだが(自分が通っていた高校は下校時に名札を外すことが義務付けられていたから)、あだ名禁止と男女の呼び方の統一(どちらでも○○さん)には激しく同意できない。あだ名というものは親しみを込めてつけるものじゃないのか? ターボーとかヨッピーとかさ。全部が全部馬鹿にするようなあだ名じゃないと思うぜ? それと、男子を○○くん、女子を○○さんと呼び分けるのは差別じゃねえだろうと。そんな程度では男女差別にはならない。そもそも男女というものは違っていて当たり前だ。体の構造も違うし、生物として担う役割も違う。これで男女差別になるなら戸籍上で性別書いとくのもアウトということにもなりかねない。男女でトイレを分けることも差別になるかもしれないという理屈だ。“差別”の濫用というのはどうかと思うね。


あと、小中学生の犯罪対策に対して。9割方「事件が起きてからすばやく対応できるようにする」ということを目標にしているが、「事件を未然に防ぐ、もしくは犯人が事件を起こしにくい環境を作る」ほうが先じゃないか?

駆け込み110番ってあるよな? あれにはものすごく不安があるんだよ。あれは、地域の関係が“密”であることでその効力を発揮するものだと思うんだよ。今の地域の関係はどう見たって“疎”だ。駆け込み110番があったところでどこの誰かも分からない、面識すらない子供を匿う気になるかということに疑問がある。緊急事態にためらえばアウトになることもある。

ゆとり教育”についても、今やっているものは明らかな失敗だ。休みを増やすことがゆとりじゃないだろうと。そのしわ寄せで平日のカリキュラムが過密になっているのはとてつもなく問題だろうと。ついていける人間とついていけない人間の差が顕著に現れ、ついていけない人間はとことん取り残され、劣等感を持つ人間を増やすことになる。加えて「足りない分は塾でも何でもやって補え」という丸投げぶり。これが成功とはどう考えても言えない。

丸投げという言葉から思ったことだが、子供が問題を起こした場合、教師と親で責任の擦り付け合いをしているという話をよく聞く。これはどっちが悪いかじゃない。どっちも悪い。どっちも子供の教育を相手に丸投げしているのだ。全部が全部そうではないと思うが。子供を責任もって教育・監督する責務はどちらにもある。問題が起きてやれ「親のしつけが悪い」だの「教師の教え方が悪い」だのという責任のなすり合いだ。自分の責任を少しは考えろと言いたい。そんな責任転嫁の板挟みに遭う子供の立場はどうなるのかということを考えるべきだ。

道徳概念のダメさも指摘されるべき要素だ。赤の他人の注意をどう受け止めるかということが今と昔では全く異なっている。昔はどこの子供であっても平等に叱り、平等に声をかけていた。だが今はどうだろうか? 人との関わりが“疎”になったことで自分と遠い人間に対し叱ることがなくなり、叱られる側もそれを“理不尽だ”と受け止めて逆ギレしてその注意を聞こうとしない。道徳概念が昔と比べて明らかに低下しているところが見て取れる。

自分も赤の他人の子供を叱ることが時々ある。だが大抵「うるさい人がいるからここでは静かにしときましょうね」的なことを親が言う。これがひどいとその親ごと叱りたくなる。やはり何度か親の態度に言及したこともある。「あんたがそんな考え方だから子供が平気でこういうことをする!」的なことを言うことがある。相手が明らかに嫌そうな顔をしてると本気で腹立たしくなる。

子供は親の背中を見て育つ。親が立派な親なら、子供も立派な子供になる。親がふざけた親なら、子供もふざけた子供になる。小さい頃はあまり親の行動や言動を反面教師にしようという気にはならない。親を反面教師にするときは大きくなってから、親のダメさに気付いて「ああはなりたくない」と本気で思うようになって行う。

「注意して逆ギレされるのが怖いから注意できない」というビビりな大人が増えているのも問題だ。どうせなら「やれるもんならやらんかい! 出るとこ出て話つけてやるぞ!」と言う勇気は必要だ。相手が殴ってきたらしめたもの、相手が違法行為をしていたなら警察に突き出す大義名分ができる。しかし、ここで周囲が傍観者を決め込んでは台無しだ。マナー違反に団結して立ち向かう勇気は絶対必要。昔の人間ができていたことだ。今の人間にできないはずがない。

教育という問題からものすごく脱線したが、言いたいことは大体言った。